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セレンディピティ

セレンディピティ

創世記1

10~20万年前
アフリカに残っていた古いタイプの人類から新人へ進化した。そこから北上して、10万年前ころに中東へ入り込んだ。その後、寒いヨーロッパから逃れたネアンデルタール人の一派が中東へ入り、両者は長い間一緒に暮らすことになる。
 
おそらく3万数千年前ころ、新人の一部は、ついに氷河期のヨーロッパに進出した。ヨーロッパの先住民だったネアンデルタール人は、押し寄せる新人との生存競争に敗れた可能性が高い。

3万年ちょっと前に、ネアンデルタール人の痕跡はなくなり、ヨーロッパは新人文化一色となる。
 

新人には、モナコ付近で発見されたグリマルディ人(黒人的特徴があり黒人の祖先かもしれない。)

ヨーロッパと北アフリカで発見されているクロマニョン人(精巧な剥片石器や骨角器を使い、アルタミラやラスコーに代表される洞窟壁画を残している。)中国の山頂洞人(剥片石器や骨角器とともに発見された人骨)などがある。
約5万年前頃、東南アジアのスンダランドからオセアニアのサフルランドヘ移住した旧石器人集団が知られている。彼らは、島々を伝って渡海・移住し、新天地を第二の故郷としてメラネシアの島々に拡散・定住し、今日まで生活している。

約3万2千年前頃、東京・武蔵野台地の旧石器遺跡から、伊豆諸島・神津島産の黒曜石を使用した石器類が発見されている。


BC2万年期、沖縄には「ムイ文明」と呼ばれる世界最古の文明が栄えていた。しかし、その文明は氷河期の終わりとともに、温暖化による海進現象により海中に没した。
 
生き残った末裔達は大陸に渡り、新たな国家建設 に取りかかったが、大陸には既に彼らが作り上げた 植民地国家群が存在していた。それらの国家もまた 海進による被害を受けていたので、避難民達による 新国家との間に深刻な利害対立が生じた。
 新国家群は植民地国家に対抗するため連合し、盟 主にスメラミコトが選ばれた。
 ムイ文明圏はユーラシア大陸広く分布していたが、 後氷期以降、文明の中心は次第に西方に移った。 ムイ文明の末裔達はメソポタミア・インドとユーラシア 大陸を彷徨った後、中国南部に安住の地を得たが、 BC千七百年北部に殷王朝が成立すると、その圧力 から逃れるため朝鮮半島南部の「高天原」に移動し た。
 BC二百二年中国で漢帝国が成立すると、半島へ の脅威を感じた高天原王朝は、当時超古代王朝が 滅亡して分裂状態だった日本列島の征服を決意し、 イザナギ、イザナミの二将軍を送った。イザナミは戦 死したが、イザナギは淡路島を占領し、日本本土へ の橋頭堡を築くことに成功した。
 数十年後、アシハラノシコオは山陰地方の小国家 群を連合させ、高天原王朝と抗争したが敗北し、西 部日本海沿岸地域は高天原王朝の支配下に入った 。
神津島の発見者は、黒潮海流を北上してきた新期(後期)旧石器時代人です。彼らは、琉球列島を経由して、種子島や四国・本州島の太平洋岸地域を遊動拡散してきた新人集団と考えられます。

日本の旧石器時代の石器の一つに「斧形石器」があります。この石器の大半は刃部を研磨した磨製石器です。この石器器種は、1949年(昭和24)日本で初めて「旧石器文化」が確認された群馬県「岩宿遺跡」の第 I 文化層に2点発見されていました。

斧形石器は現在北海道から九州、奄美大島まで約135カ所の遺跡で約400点出土しています。

日本の旧石器文化に発見される斧形石器の刃部磨製例は、「磨製石斧」と呼べる形態を示す器種です。世界の旧石器時代遺跡からの磨製石斧の発見例は少なく、オーストラリアにやや集中して発見されている例は非常に特殊なものです。

日本の旧石器文化の磨製石斧は、不思議なことに3~4万年前に集中し、その後は草創期にならないと出現しない。現在「世界最古」の磨製石斧であり、さらにこの磨製技術は日本で独自に発明された可能性もあるのです。
 
関東地方南部には黒曜石の原産地は知られていない。しかし、多くの遺跡で黒曜石が使用され、使用されている黒曜石は、大きく信州(長野県)系、箱根(神奈川県、静岡県)系と神津島(東京都)系の原石が複雑に利用されています。

東京地方の黒曜石分析は昭和44・45年の調布市野川遺跡の発掘調査を契機にして、関東・中部地方の旧石器時代遺跡184文化層から2,733点の黒曜石製石器が、分析されました。

その結果、約3万年前頃から黒曜石が使用され始め、主に箱根系の黒曜石を利用していました。12,000年前頃になると箱根系と信州系が同時に使用され、さらに太平洋上の神津島系の黒曜石も使用されています。縄文時代になると、箱根系、信州系、神津島系の三者が早期と前期では50:37:13パーセント(遺跡数)、43:49:8パーセント(黒曜石数)という比率であり、中期になると36:41:23パーセント(遺跡数)、42:42:16パーセント(黒曜石数)となっています。

神津島系の黒曜石が約35,000年前頃に東京の旧石器遺跡(武蔵台X層文化)から確認され、旧石器人が世界に先がけて海上航海を行っていたことが判明しています。

北海道の十勝三股や白滝産に特徴的に存在する褐色の黒曜石については、山梨県の縄文時代遺跡出土の褐色黒曜石石器を分析し、霧ケ峰や和田峠産と産地が同じ場所にあることを確かめています。最近八ヶ岳山麓にも原産地が確認され出した。

最近、明治大学で旧石器時代の大規模な鉱山址「鷹山遺跡群」の発掘調査が続行中であり、この地方が中部・関東地方の黒曜石の一大供給地域であったことが理解されている。
 
富山県下の旧石器時代4遺跡、縄文時代4遺跡出土の黒曜石石器を分析し、旧石器段階では長野県霧ケ峰産と秋田県深浦産、縄文段階では霧ケ峰産と山形県月山産と判定している。
 
中国地方北部  
 隠岐産島根県)の黒曜石は主に中国地方北部の海岸地域と中央山岳地帯の遺跡に使用され、一部は瀬戸内側にも運搬されていることが判明している。

縄文時代が中心で、隠岐島から海上交通によって本州島に丸木舟で運ばれたものである。
最近、隠岐産の黒曜石がロシアの沿海州にも渡っていることが判明している。日本海を丸木舟でロシアと日本の先史人が交流している事実が浮上してきたのである。
 
九州地方北部  
佐賀県の腰岳が最大で、次は長崎県の松浦半島の牟田と針尾島の古里海岸である。また九州本島から離れた姫島(大分県)に2所、壱岐(長崎県)の島に4カ所、黒曜石の原産地が存在している。
 この地方には大きく伊万里、姫島、阿蘇系の3つの原産地が知られている。そして各遺跡出土の黒曜石を肉眼的に識別すると、姫島系は特徴があるが、漠然と阿蘇系と呼ばれていた黒色の黒曜石は伊万里系(のちの腰岳)であり、山口県から福岡県にかけて広く分布していることが確かめられたという。

 石器を分析し、佐賀県腰岳か長崎県古里海岸産と判定した。当時、まだ腰岳と古里海岸産の区別が理化学的分析でも分離出来ない段階にあった。
 
九州地方は本州、北海道と共に黒曜石の原産地の集中した地域である。

最大の原産地は腰岳(佐賀県)で、ここの黒曜石は北は朝鮮半島から、南は沖縄本島(鈴木正男、二宮修治分析)にまで運ばれている。
腰岳に次いで黒曜石の原産地が集中しているのは、長崎県松浦半島の牟田と針尾島の古里地域である。

熊本県阿蘇地方にも、古くから黒曜石の原産地が知られている。
昨年12月大分県聖嶽洞穴の発掘調査の折、熊本県の考古学関係者から、珍しい黒曜石石器を見せられた。それは表面の状況が肉眼では安山岩状を呈する旧石器時代の大型剥片石器類で、筆者も最初黒曜石であることを疑ったほどであった。しかし新しい破損部分を見るとガラス質で光沢があり黒曜石のようであった。原産地は阿蘇にあるという。
 この北部九州地域も近畿、瀬戸内地域と同じく、安山岩の大原産地が鬼鼻山、老松山(佐賀県)周辺に存在し、旧石器~弥生時代の大型石器はこの石材を多用している。中でも明治大学が発掘調査した多久市三年山や茶園原遺跡では、ここの安山岩を使用して大型石槍を多量に製作した地点が確認されている。
 
九州地方南部  現在8カ所近くの黒曜石原産地が知られている。熊本県(白浜)、鹿児島県(日東、上牛鼻、竜ケ水。長谷)、宮崎県(桑ノ木津留)の境界地域に黒曜石の原産地が集中して認められる。
 この地方の黒曜石原産地は、昭和41年頃から出水高等学校の池水寛治による上場高原の考古学調査で知られた(池水「鹿児島県上場遺跡」考古学年報28, 1977、「熊本県水俣市石飛遺跡」考古学ジャーナル21, 1968)。池水によると出水市日東部落開拓地に黒曜石の大露頭を確認している
近年では大久保浩二によって、新発見の黒曜石の原産地が報告されている。
  鹿児島県は黒曜石をはじめ地元のあらゆる原石、たとえばチャート、安山岩、鉄石英、玉髄、水晶などをを使用しているようである。
 
奄美・沖縄地方 の地方には黒曜石の原産地は知られていない。
 沖縄での黒曜石石器は大正15年(1926)に東京の小牧實繁による城嶽貝塚の発掘調査で、出土した石鏃の中に2点の黒曜石製品があり、沖縄では初めての発見で
 現在、奄美地方では奄美大島から4カ所、徳之島から3カ所、伊是名島から3カ所、沖縄本島から16カ所以上発見されている(上村俊雄「南西諸島出土の石鏃と黒曜石」人類史研究10, 1998)。
 奄美・沖縄地方はサンゴ礁の発達した地域で、南海産の大型貝殻が道具に多用されている。当然石器に代わる原材であり、重量石器以外の小型軽量剥片石器にはこの貝殻が用いられている。この地域の遺跡を歩くと、表面には貝殻は多く散布するが、石片類はほとんど見つからない。発掘資料にはチャート製石器が僅かに存在し、地元のチャートが使用されていることが分かる(小田静夫「沖縄の剥片石器について」『高宮廣衞先生古稀記念論集』2000)。したがって、黒曜石は超貴重品であった訳で、九州地方の縄文人が、貝殻などとの交換財として持ち込んだものであろう。
 
 
黒曜石は日本の旧石器、縄文時代遺跡を中心に、石器の石材として多用されている。その利用範囲は原産地を中心にした地域であるが、原石産出量、質、母岩規模などが優れていた原産地の場合、遠距離にその利用状況が認められている。現在、北海道では白滝産が量、質、大きさで群を抜いており、津軽海峡を渡って青森県や遠く日本海を渡ってロシアの沿海州地方ヘ運ばれている。中部地方では和田峠産が透明で質も良く、中部・関東一円の石鏃用として多用されている。九州地方では腰岳産が質、量が多く、南は琉球列島の沖縄本島へ、北は対馬海峡を越えた朝鮮半島南部の遺跡に発見されている。こうした黒曜石の遠距離移動は、「交易」「文化圏」などを説明する資料として重要であり、黒曜石の科学分析はそれを証明する手段として最も有効な方法であった。また黒曜石の水和層を測定することによって、その石器が使用された年代が推定できる利点がある。他の年代測定とのクロスチエックによって正確さは確かめられている。
 黒曜石は日本先史考古学にとって重要な研究石材である。その証拠に日本考古学の開始とともに、黒曜石をテーマにした研究がなされている。その初期では肉眼や顕微鏡下での岩石の性質からの判別であった。戦後になり、現代科学の発達によって黒曜石分析法も理化学的手法による分析が行われることになった。しかし、初期の頃には資料を粉末にする破壊試料が中心であった。したがって、希少、重要遺物、完形石器などについては分析出来ないでいた。しかし、非破壊による分析が一般化した現在、こうした資料に関しても分析可能であり、関係者の努力によってすばらしい成果が約束される時代が到来したのである。
 
ヨ-ロッパの3万5000年前から1万2000年前を後期旧石器時代と呼ぶ。
約10万年前、アフリカで誕生した新人つまりクロマニオン人が、
3万5000年前にはヨ-ロッパに現れ、ネアンデルタ-ル人に置き代ったのだ。

クロマニオン(Cro-Magnon)は地名で、
ドルド-ニュ川の上流の支流、ヴェゼレ川に沿った地点にあるらしい。
壁画で名高いラスコ-もそれほど離れていない。

「 Past World」(The Times Atras )によれば、
この時代は複雑な社会構造が初めて現れた時代である。
組織化された定住地や共同墓地がつくられた。
芸術的なもの、ヴィ-ナス型人形、洞窟画、個人的な装飾品などが出土している。
遠方の産物が発見されていることは、彼等の行動半径の広さを示している。
居住地についても、一年を通じて住んでいたことが明らかなものもあり、
一方、一時的な居住跡もある。

もし後者が前者と関連しているとすれば、
すでにこの時代の人々のネット・ワ-クの存在すら否定できなくなる。

技術革新が行われた。
この時代の石器はブレ-ドで特徴づけられる。
ブレ-ドは、それまでのフレイク(これも刃)に対して、
刃の長さが幅の2倍以上の石器と定義される。

一個の材料から複数の似たブレ-ドがつくられているので、
大量生産の最初の例といえる。
彼らは、ヨ-ロッパ大陸の最初の芸術家だった。
起源は3万5000年前あるいは3万年前まで遡る。
洞窟などの壁画の他、持ち運び可能な物に色付けや彫刻したものもある。

興味深い点は、壁画と持ち運び可能なグッズでは、分布が違っていることだ。

壁画が南フランスからスペインに集中しているのに対し、
グッズの方は南フランスと北部スペインを中心とする地域から、
むしろ北東へ、中央ヨ-ロッパから東ヨ-ロッパ、
さらには黒海の北のロシアのステップ地帯にも広がっている。

 今のところ、この分布の差が何を意味するかは分からない。
あるいは、分布の差は二つの異なる民族を示唆するかもしれない。

しかしここでは、両者が混じりあう中心が
南フランスから北部スペインにかけての地域にあったことを強調しておこう。

壁画のための絵の具は黄土(ochre)が使われた。
赤、黄色、茶色などが主であり、また酸化マンガンの黒、紫が使われている。
青や緑は発見されていない。
壁画の題材は、バイソン、鹿、野生の牛、馬など、大型の動物が多く、
またマンモス、ライオン、さらに魚まで描かれている。人間の姿は稀にしか現れない。
偶に現れるそれは、マスクや動物の皮、あるいは鹿などの角をつけている。
それ故、シャ-マンを表している可能性が高い
時代的には、持ち運び可能な加工品の方が古いと考えられている。
実に様々のものがあり、骨や角に動物を刻んだものや、
石の板に抽象的な線や点を刻んだものがある。
また一連の溝や刻み目を刻んだものもある。

それらは、もしかすると、狩猟の際の獲物の計算書、
あるいはカレンダ-ではないかと考えられている。
だとすると、文字記号に近くなる。

後期旧石器時代の岩窟壁画は、多くの場合たいへん近寄りがたい場所にある。
それ故、宗教などある特別の意味を持っていたことは確かである。
狩りの獲物が豊富であるように祈ったか、あるいは成年式など関係があるかもしれない。

クロマニン人は、ジェリコやチャタルフュイックより遥か昔、
すでにかなりの文明を築き上げていたのだ。
彼らと中東の文明の起源はどんな関係があるのだろうか。

我々に繋がる文明は、BC1万1000年頃、
中東に現れたナトウフ人の勢力圏で生じた。
しかしナトウフ人に先行して、
BC1万8000年前からBC1万2000年前まで
ケバラン人と呼ばれる人々がいたことが分かっている。

ヨ-ロッパで、もっとも新しい氷河期の最盛期は
2万年前から1万6000年前までだったという。

ヨ-ロッパに落葉性の樫の森が広がるのは、
スペイン南部、イタリア南部それにバルカン半島でさえ、BC1万1000年頃だという。
BC8500年頃には、ようやく北部スペインと北部イタリア、
それに現在のブルガリア、ユ-ゴスラビア、ル-マニアの南半分位まで広がった。
フランスの大半に広がるのはBC7500年頃、
イギリスから、今のドイツ、ポ-ランドを経てロシアまで、
それにスカンジナビア半島の南端を含む地域に広がるのは
BC5000年頃になってからにすぎない。

 なぜか数十万年におよんで、人間が住み着いていた
南フランス、ガロンヌ川やドルド-ニュ川の流域も、
氷河期の最盛期にはかなり厳しい寒さに襲われていたわけで、
食糧が乏しくなっており、南に避難せざるをえなかったと思われる。

ネアンデルタ-ル人の時代はともかく、
我々に繋がる時代に入ってからは、
多分、中東地域に現れた最初の人間と考えられる
ケバラン人が姿を現すのがBC1万8000年前。
それは、ヨ-ロッパの氷河期の最盛期に当たっていた。

中東に現れその後の文明のメイン・ストリ-ムとなった人々は、
アフリカ系というよりはヨ-ロッパ系だった蓋然性が高い。
ヨ-ロッパは氷河期に一度ほとんど無人化した。

BC6000年以降中東から自然銅を拾うため、
ヨ-ロッパに入り込んでいった人々は里帰りしたわけで、
余り抵抗を受けなかったであろう。
今から1万年ほど前、最後の氷河期が終わり、急激 な気温上昇のために世界各地で大洪水が発生し、

平野部に存在した文明を壊滅させました。 このとき滅びた文明の中に「アスカ文明」と呼ばれるものがありました。

この古代文明を形成した民族は、北方のシベリア大陸を起源とするモンゴロイドでした。その民族をアスカ人と言いました。

モンゴロイドは二系統に大別されます。

アスカ人はその内の原モンゴロイドと呼ばれている系統に属し、今日のシベリア北部にいる諸民族と同じ系統です。


BC2万年期、アスカ人の一部は気候の寒冷化に伴い、南下する巨大獣を追って移動し、中国大陸に到達しました。

中国大陸部に進入した当初、アスカ人は尖頭器文化に代表される後期旧石器時代の文化を有していましたが、

BC1万9千年期になると、細石器文化に至り、中石器時代を迎えました。

この頃になると、西方の民族との接触により遊牧の技術を獲得し、食生活も安定してきました。

この当時、極地に存在した巨大な氷層のために海 面は現在よりも120メートルほど低く、

そのため東 シナ海・黄海の大陸棚は半分以上が陸塊だった。( この大陸を仮に「東シナ海大陸」と呼ぶ)

BC1万8千年期になると、その内の東方の沿岸 部にいた部族は、対岸の琉球諸島に移住しました。その部族をムイ族と言った。

奄美大島、沖縄本島、宮古島、石垣島の四島は現 在よりも三倍から十倍の面積を持つ大島でした。
 
さらに沖縄本島、宮古島間にも大島が存在しました。

沖縄地方の総面積は現在は奄美諸島を含めて3200平方キロメートル程度でありますが、

当時は合計す ると18000平方キロメートルあった。

原始的な狩猟採集と遊牧生活を送っていたアスカ人が急速に文明化した最大の要因は、

稲を発見し その栽培法を確立したことによりました。

現在水没している東シナ海大陸棚には、当時至るところに湿原があり、
そこにはジャポニカ種の稲が自生していました。

稲の発見はアスカ人に人口の急増と、村落の形成を もたらしました。

東シナ海大陸は土地も広大で人口も多かったが、水利をめぐる同族間の争い、

北方異民族や山 岳部族の侵入、当時多数生息していた虎や狼など の猛獣による被害などのために、彼らが文明を築く、ゆとりは生じませんでした。

ムイ族は上記の内のいずれかの事情で定住をあ きらめ、対岸の琉球諸島に移住したのでした。

BC16000年期、琉球諸島に移住したムイ族は その地で文字を発明し、アスカ文明に先行する世界 最古の文明「ムイ文明」を確立しました。

ムイ族が世界最先端の文明を持つことが可能でしたのは、琉球諸島が地理的条件に恵まれていたせいです。

更新世における東シナ海大陸沿岸地方は、現在よりも平均気温が四度C程低く、湿度も相対的に低かった。
 琉球諸島は、海洋性の気候のため年間を通じて気 候も温暖で、台風の襲来に悩まされることもあった が、そのおかげで水不足に陥ることは少なかった。
 ムイ族が沖縄に渡ったのとほぼ同時期に朝鮮半 島経由で日本列島に渡った部族もあった。その部族 をスイジン族と言った。
 この当時朝鮮半島南端部と東シナ海大陸とは地 続きだった。
 朝鮮半島と日本列島の間には現在よりも数倍も大 きい対馬があり、西水道と東水道が存在したが、西 水道は十数キロ、東水道にいたっては僅か数キロし かない狭い海峡だった。壱岐は本州の一部だった。
 当時の日本列島は、北部や中部の山間部は寒冷 な気候だったが、南部の沿岸地方は比較的温暖な 気候だった。
 当時の日本周辺の地形は、樺太が沿海州と地続 きで、樺太から北海道・国後島までが大陸の一部で あり、冬季には氷結した津軽海峡を隔てて本州、佐 渡島、四国、九州、屋久島、種子島までがサーベル 状の巨島として存在していた。
 その島はスイジン島と呼ばれた。
 スイジン島に渡ったスイジン族は稲作の最適地を 求めて南下北上を続けた。
 スイジン族が侵入する以前のスイジン島の南方沿 岸部にはメラネシア系の海洋民族やネグリト族が定 住していた。
 彼らは漁労とタロイモ、ヤムイモ栽培等の原始的な 農耕を行っていた。スイジン族の侵入が開始される と、先住民族は山間部に追いやられていった。
 文化的にも軍事的にもスイジン族の方が優勢だっ た。
 当時のスイジン島は現在の屋久島沖が最南端だ ったが、そこから更に二十キロ離れたトカラ列島に渡 る部族も現れた。
 トカラ列島の南端から奄美諸島までは四十キロあ ったが、中間地点に停泊可能な岩礁があった。

 奄美諸島から琉球諸島までは連綿と島が続いて いた。
 琉球諸島は先住のネグリト系種族がわずかに原 始的な漁労採集を営んでいただけで、ハブ以外に猛 獣の類もおらず、そこに移住したムイ族は稲作が普 及すると、すぐに生活のゆとりを生じた。
 特に現在水没している宮古島北東沖にあった陸塊 は、全島が平坦で、過去の間氷期に水没を経験して いるのでハブもおらず、大いに栄えた。
 その島はニライ島と呼ばれていた。面積は三千平 方キロメートルほどだった。
 この島を中心にBC一万六千年期には農耕を基盤 とする古代ムイ文明が形成されたのである。


寒冷化から逃げなければならなかった彼らの行き先は南にしかない。
というわけでBC1万8000年頃、パレスチナに現れたケバラン人の出自をヨ-ロッパとした。
中東地域に現れた最初の人間と考えられるケバラン人が姿を現すのがBC1万8000年前。
それは、ヨ-ロッパの氷河期の最盛期に当たっていました。
中東に現れその後の文明の主流となった人々は、アフリカ系というよりは
ヨ-ロッパ系だった可能性が高い。
ヨ-ロッパは氷河期に一度ほとんど無人化しました。
私達に繋がる文明は、BC1万1000年頃、中東に現れたナトウフ人の勢力圏で生じました。
世界最古の農業は、BC1万年より少し下がった頃、カルメル山の周辺に溯ります。
その周辺には、現在の大麦や小麦の先祖の野生種が自生していて、最初は、
野生の麦を、動物の骨の柄に石の刃を埋め込んだ原始的な鎌で採取し始めたと思われます。
それが、エリシャの泉にナトウフの人々が集まりだし、やがて栽培農業に発展しました。
それが世界最古の町ジェリコです。
ジェリコからは、BC8000年頃の町の城壁が発掘されている。
城壁に囲まれた面積は約10エーカー(1万2000坪)、
2000人から3000人が住める広さだ。
頑丈な石の塔をもっている。
多分、敵を見張るためだろう。
いうまでもなく、
大規模な城壁や高い石の塔をつくるためには、巨額のコストがかかる。
そんなコストが正当化されるのは、
それによって守らなければならない富みが、
それを上回っている場合だけである。
疑いもなく、BC 8000年のジェリコには「富」が、
あるいは「蓄積された価値」が存在していたのだ。
そしてそんな古い時代には、
蓄積可能な価値としては、穀物しか存在しなかった筈だ。
かくてジェリコの城壁は、かなりの規模の栽培、定着農業の証拠でもある。
農業の開始とともに、人類は新石器時代に入る。
ジェリコの多分世界最初の農業は、その周辺に住んでいた、
それに先立つ中石器時代の人びとの子孫によって始められたと考えられている。
パレスチナやシリア、さらにイラクの北部では、
ジェリコの他にも、何ケ所か、初期の農業の痕跡が発見されている。
しかし、それはせいぜいBC7000年まで溯ることができるだけのようだ。
それらの地域の農業が、独自に発達したものか、
ジェリコから派生したものかは分からない。
しかし、その間1000年以上の時間が経過していることから考えると、
ジェリコのなんらかの影響があったと考えるのが自然だ。
なぜかといえば、当時のジェリコでは、
遠くアナトリア中部のカッパドキア、カイセリから
黒曜石が輸入されているからだ。
すでに人びとは、かなり長距離を交流し合っていたのだ。
当然、農業技術の情報も流れただろう。
ジェリコの最初の文明は約1000年続いた。
城壁と塔の効果だったのだろう。
しかしBC7000年頃、その文明は急に終わる。
新しい人たちがやって来たのだ。
ジェリコとともに、パレスチナのいくつかの地点が同じ運命を辿った。
パレスチナのいくつかの地点が同じ運命を辿った。
侵入は、かなりの規模で行われたのだろう。
新しい侵入者は北シリアからやって来たと考えられている。
北シリアには、中石器時代の人の痕跡はない。
新石器時代の住民は、アナトリア方面から入って来たらしい。
ジェリコのそれまでの円形の家は方形の家にとって代わった。
その方形の家の床の壁は、磨かれた「しっくい」で覆われていた。
たいへん興味深いのは、方形で磨かれたしっくいの床の家という、
かなり特徴のある家が
アナトリアのチャタルフュイックの遺跡で発見されていることだ。
時代は、BC6500年に溯る。
新しい侵入者が北からやって来たことは、
エインコーン(einkorn)という小麦の品種でも推定しうる。
ジェリコ周辺では、
それまでエンメル(emmer)という
土着の小麦だけが栽培されていただけである。
エインコーン型の小麦の野生地はアナトリアで、
ジェリコでは、この時代から初めて栽培されるようになったのである。
かくて、文明の起源に関して次のように言えそうである。
 
* ジェリコ周辺のパレスチナの地域で、
野生の大麦とエンメル小麦が食料として利用され始めた。
それはやがて、人間によって栽培されるようになった。
農業の始まりである。
*  農業は蓄積された富を生み出し、
本格的な防衛手段ム城壁を生んだ。
都市国家の発生である。
* 都市の出現は、
料理の道具などの器具あるいは矢じりなどの材料として、
黒曜石など特別の鉱物の遠距離交易を発達させた。
* 交易のために必要となった人間の交流が、
情報として農業技術をアナトリア
(黒曜石の産地)などへ伝えた。
* 新しい地域は、
農業を取り入れることにより、人口を増大させ、
さらに農業地域を発展させた。
ジェリコに多数の競争相手が生じたのである。
* やがて城壁の防衛力を上回る攻撃力をもった
人間集団が北からやって来て、
ジェリコを襲う。
しかし、古くからのジェリコの住民が皆殺しになったわけではない。
死海の南に、ジェリコの伝統的な土器を使用する人たちの
集落が発見されているからだ。
だいたい、せいぜい、石器製の武器しかない当時、
多数の住民の皆殺しなど不可能だったと思う。
 ところで、この時、ジェリコに侵入した人びとは、
まだ土器をもっていなかった。
土器の発生は、アナトリアのチャタルヒュイックだった可能性が高い。
そこでは、BC6750年頃からBC6200年頃の土器が発見されている。
しかし、まだ粘土で形をつくっただけで火で焼かれていない。
この原始的な土器も、けっこう役に立ったのだろう。
アナトリアから北シリアへ拡がった。
北シリアでは、火山灰を使って白色土器もつくられた。
そしてBC6000年頃、場所は特定できないが、
北シリアからアナトリア南部のどこかで、
世界最初の火で焼いた土器、陶器が生まれた。
興味深いのは、陶器の出現とともに、人間の定住生活が増えたことだ。
それは、多くの遺跡で、
もっとも古い地層から陶器が発見されていることで推測できる。
同じ頃、つまりBC6000年頃から豚や牛や羊など、
家畜の飼育も増えている。
羊はともかく、豚や牛は定住生活に関係があるのだろう。
陶器は、人間を定住させる魔力をもっていたのだろうか。
結論から言えば、もちろん逆である。
人間が定着するようになって初めて、
陶器のように壊れやすく持ち運びに不便だが、
日常生活には便利な器具に対する需要が増えたのだ。
陶器がBC6000年頃から急速に普及したことは、
その頃から定着して穀物生産に従事する
人間の数が増えたことを示している。

聖なるカルメル山の洞窟に住む野生の大麦・小麦を採取していた人々が ... それ以後は自然銅と孔雀石を世界中探し回わり、BC4200年頃、銅鉱山を見つけて銅鉱石を採取する技術を身に付けた時期まで探し続けたと考えられます。 ...
農業の発生としては、ジェリコ以外でも数多く知られている。
しかしその多くは、城壁を築くまでには成長しなかった。
人類史上初めての貯蔵可能の価値である農業生産物・・・、
その価値の生産者である農民の最大の課題は、
外敵から保護されることであった。
城壁は、その最初の対策である。
しかし城壁を築くためには、最少限度ある一定の人間の集団が必要だったろう。
半面、人数を増やすためには、ある程度以上の農業が存在しなければならない。
ジェリコは天然のオアシスで、遊牧民たちの水飲み場であった。
人が集まりやすい場所だったのである。
それに、ジェリコの最初の住民が、
北西のカルメル山の山麓からやって来たと考えられている点も見逃せない。
カルメル山には野性の小麦や大麦が自生しており
、彼らはすでにそれを採取していたのである。
農業は、通常の採取経済いに比べて50倍もの生産性をもつという。
野生の穀物採取でも、その中間の生産力をもっていた可能性がある。
換言すればカルメル山からジェリコへ移り、農業を始めた人たちは、
集団の規模の上で比較的優位にあった可能性がある。
それが、幼児死亡率の壁のブレーク・スルーを可能にしたのであろう。
ジェリコの城壁は、1000年の間にだんだんと補強されている。
それは、農民と外敵の力のバランスがだんだんと
外敵に有利に傾いていったことを示唆している。
ジェリコが繁栄すればするほど、
外敵にとって魅力を増すという矛盾もあったと思う。
さらに想像をたくましくすれば、
外敵が増大したことは、ジェリコの情報発信地としての発展を示唆している。
ジェリコの富についての噂は、それを奪おうとする人たちを増大させる一方、
それをまねて自分たちの土地で農業を始めようとする人たちも増やしたであろう。
ギリシャで農業が始まるのはBC6500年頃といわれるが、
それは自生的というよりはアナトリアから伝播したと考えられている。
時間的空間的に考えて、そもそもの根源は、
ジェリコがその発信地だった可能性がむしろ高いように思われる。
ところでジェリコの城壁は、BC7000年頃破壊された。
農民と外敵の力のバランスは、もはや城壁だけでは防衛できないほど、
外敵に有利になってしまったのだろう。
この力のバランスの変化は、
ジェリコだけの地域的特殊的なものではなく、
もっと広汎な一般的現象だったっと思われる。
それは、城壁というものが、
その後4000年ほどつくられていないことからも推定できる。
城壁は、もはやそれだけでは農民社会を防衛することができなくなったのである。
役に立たないことからこそ、つくられなかったのである。
農民社会の防衛のためには、プラス・アルファーが必要であった。
いうまでもなく新しい武器である。
それまでの多分木や石でつくられた武器に代わる新しい武器・・・。
それは金属製の武器しかない。
しかしジェリコが滅亡したBC7000年頃には、
まだ火の技術が知られていなかった。
火で焼いた土器すらなかった。
人類が火の技術を修得するのは、BC6000年頃である。
それはアナトリア南部から北シリアにかけての地域だった蓋然性が高い。
人類は、火で焼いた土器の発明直後、銅を使い始めている。
銅は酸素との結合力が弱いので、自然銅として産出されるのである。
金・石器併用時代は、それまでの石器使用が続く中で、
だんだんと銅の使用が増えていた時代である。
しかし武器をつくるための金属としては、銅には重大なる欠点があった。
軟かすぎるのである。
そのせいか、銅の使用が始まっても、農業社会の進歩は遅々としていた。
しかし、その間ハラフ文化からウバイド文化へと、
しだいに中近東随一の農業適地メソポタミアへと近づいていた。
それは、アナトリアや北シリアの山地から、
チグリス・ユーフラテスの両河を下って、
だんだんと平野に進出していった過程である。
それは農民社会の防衛力が強化されていった過程でもあったろう。
このような遅々とした文明の進歩に、
人類史上でも最大限のインパクトを与えたのが、
BC3500年頃の青銅の発明である。
銅になにか別の金属を混ぜて合金にすると、遥かに硬い金属が得られる。
このことに気がつくために、人類は、約2500年必要だったのである。
最初は、銅に砒素を混ぜて青銅をつくった。
しかし青銅として定着するのは、銅に十数%に錫を混ぜた合金である。
青銅こそは、
人類が長年探し求めて来た城壁に対する「プラス・アルファー」であった。
人類は初めて、平地のメソポタミアを大農業用地にする可能性を手に入れたのである。
しかし本格的な農業社会を青銅の武器によって建設するためには、
世界中から銅と錫を集めて来なければならなかった。
なぜなら農業には適したメソポタミアの周辺では、
銅や錫がなかったからである。

毎日をラララと暮らせる鍵をみつけましょう。 ... 聖なるカルメル山の洞窟に住む野生の大麦・小麦を採取していた人々が ... ジェリコからチャタルフュイックへ、そしてメソポタミアへと、文明は引き継がれながら移動していったと考えられます。 ...
ジェリコの住人は、レバノンから数キロメートルのところにある聖地の山カルメル山の洞窟に住んでいた中石器時代の人達の子孫と考えられています。 カルメル山...

文明の起源  その2
文明の起源に関し、文明の起源その1で、
1 BC8000年頃、あるいはそれより少し前、パレスチナのカルメル山から
ジェリコにかけての辺りで、自然発生的に穀物栽培が始まった。
2 BC6000年頃、北シリアから南部アナトリアの辺りで、火を使った陶器
の製造が始まったことを明らかにした。
これまで、文明は4つの大河地帯、
チグリス・ユーフラテス、ナイル、インダス、黄河で、
それぞれ独立に発生したことになっている。
いわゆる4大文明発生説である。
 しかし4大文明のうち、もっとも古いものでも、
せいぜいBC3000年頃に起源をもっているにすぎない。
それ以後、5000年の歳月が流れている。
しかし、ジェリコの城壁からBC3000年までにも
5000年の歳月が流れているのだ。
 考古学的蓄積が進んだ現在、
4大文明発生説は明らかに再検討されなければならない。
問題の焦点は、
文明の起源を5000年溯らせなければならない
ということだけではない。
それぞれ独立に発生したと考えられてきた、
アフリカ、中東、インド、中国の文明が、
たがいに関連をもっていたのではないか、
という点にある。
 そこで、さし当たって
BC6000年からBC3000年の3000年間の検討が重要な問題となる。
それは、人類が徐々に銅を使い始めた時期に当たっている。
文明の起源 その1
文明は、農業とともに始まる。
世界最古の農業は、BC1万年より少し下がった頃、
カルメル山の周辺に溯るようだ。
その周辺には、現在の大麦や小麦の先祖の野生種が自生している。
最初は、野生の麦を、
動物の骨の柄に石の刃を埋め込んだ原始的な鎌で採取し始めたのだろう。
それは、まもなく栽培農業に発展する。
その記念碑が世界最古の町ジェリコである。
ジェリコからは、BC8000年頃の町の城壁が発掘されている。
城壁に囲まれた面積は約10エーカー(1万2000坪)、
2000人から3000人が住める広さだ。
頑丈な石の塔をもっている。
多分、敵を見張るためだろう。
いうまでもなく、
大規模な城壁や高い石の塔をつくるためには、巨額のコストがかかる。
そんなコストが正当化されるのは、
それによって守らなければならない富みが、
それを上回っている場合だけである。
疑いもなく、BC 8000年のジェリコには「富」が、
あるいは「蓄積された価値」が存在していたのだ。
そしてそんな古い時代には、
蓄積可能な価値としては、穀物しか存在しなかった筈だ。
かくてジェリコの城壁は、かなりの規模の栽培、定着農業の証拠でもある。
農業の開始とともに、人類は新石器時代に入る。
ジェリコの多分世界最初の農業は、その周辺に住んでいた、
それに先立つ中石器時代の人びとの子孫によって始められたと考えられている。
パレスチナやシリア、さらにイラクの北部では、
ジェリコの他にも、何ケ所か、初期の農業の痕跡が発見されている。
しかし、それはせいぜいBC7000年まで溯ることができるだけのようだ。
それらの地域の農業が、独自に発達したものか、
ジェリコから派生したものかは分からない。
しかし、その間1000年以上の時間が経過していることから考えると、
ジェリコのなんらかの影響があったと考えるのが自然だ。
なぜかといえば、当時のジェリコでは、
遠くアナトリア中部のカッパドキア、カイセリから
黒曜石が輸入されているからだ。
すでに人びとは、かなり長距離を交流し合っていたのだ。
当然、農業技術の情報も流れただろう。
ジェリコの最初の文明は約1000年続いた。
城壁と塔の効果だったのだろう。
しかしBC7000年頃、その文明は急に終わる。
新しい人たちがやって来たのだ。
ジェリコとともに、パレスチナのいくつかの地点が同じ運命を辿った。
パレスチナのいくつかの地点が同じ運命を辿った。
侵入は、かなりの規模で行われたのだろう。
新しい侵入者は北シリアからやって来たと考えられている。
北シリアには、中石器時代の人の痕跡はない。
新石器時代の住民は、アナトリア方面から入って来たらしい。
ジェリコのそれまでの円形の家は方形の家にとって代わった。
その方形の家の床の壁は、磨かれた「しっくい」で覆われていた。
たいへん興味深いのは、方形で磨かれたしっくいの床の家という、
かなり特徴のある家が
アナトリアのチャタルフュイックの遺跡で発見されていることだ。
時代は、BC6500年に溯る。
新しい侵入者が北からやって来たことは、
エインコーン(einkorn)という小麦の品種でも推定しうる。
ジェリコ周辺では、
それまでエンメル(emmer)という
土着の小麦だけが栽培されていただけである。
エインコーン型の小麦の野生地はアナトリアで、
ジェリコでは、この時代から初めて栽培されるようになったのである。
かくて、文明の起源に関して次のように言えそうである。
 
* ジェリコ周辺のパレスチナの地域で、
野生の大麦とエンメル小麦が食料として利用され始めた。
それはやがて、人間によって栽培されるようになった。
農業の始まりである。
*  農業は蓄積された富を生み出し、
本格的な防衛手段ム城壁を生んだ。
都市国家の発生である。
* 都市の出現は、
料理の道具などの器具あるいは矢じりなどの材料として、
黒曜石など特別の鉱物の遠距離交易を発達させた。
* 交易のために必要となった人間の交流が、
情報として農業技術をアナトリア
(黒曜石の産地)などへ伝えた。
* 新しい地域は、
農業を取り入れることにより、人口を増大させ、
さらに農業地域を発展させた。
ジェリコに多数の競争相手が生じたのである。
* やがて城壁の防衛力を上回る攻撃力をもった
人間集団が北からやって来て、
ジェリコを襲う。
しかし、古くからのジェリコの住民が皆殺しになったわけではない。
死海の南に、ジェリコの伝統的な土器を使用する人たちの
集落が発見されているからだ。
だいたい、せいぜい、石器製の武器しかない当時、
多数の住民の皆殺しなど不可能だったと思う。
 ところで、この時、ジェリコに侵入した人びとは、
まだ土器をもっていなかった。
土器の発生は、アナトリアのチャタルヒュイックだった可能性が高い。
そこでは、BC6750年頃からBC6200年頃の土器が発見されている。
しかし、まだ粘土で形をつくっただけで火で焼かれていない。
この原始的な土器も、けっこう役に立ったのだろう。
アナトリアから北シリアへ拡がった。
北シリアでは、火山灰を使って白色土器もつくられた。
そしてBC6000年頃、場所は特定できないが、
北シリアからアナトリア南部のどこかで、
世界最初の火で焼いた土器、陶器が生まれた。
興味深いのは、陶器の出現とともに、人間の定住生活が増えたことだ。
それは、多くの遺跡で、
もっとも古い地層から陶器が発見されていることで推測できる。
同じ頃、つまりBC6000年頃から豚や牛や羊など、
家畜の飼育も増えている。
羊はともかく、豚や牛は定住生活に関係があるのだろう。
陶器は、人間を定住させる魔力をもっていたのだろうか。
結論から言えば、もちろん逆である。
人間が定着するようになって初めて、
陶器のように壊れやすく持ち運びに不便だが、
日常生活には便利な器具に対する需要が増えたのだ。
陶器がBC6000年頃から急速に普及したことは、
その頃から定着して穀物生産に従事する
人間の数が増えたことを示している。
エリシャの泉
考古学的には、金・石器併用時代(Chalcolithic Age)である。
銅の発見は、BC8000年まで溯るようだ。
BC6000年頃には、銅を火で溶かすこともできるようになっていたらしい。
同じ頃、人類は陶器を発明していた。
それは、火を使って物質を加工できる技術を身につけたことを意味する。
しかし初期の頃の銅の溶融は、むしろ偶発的な現象であったろう。
当時の供給源そのものが、
川で偶発的に発見される「自然銅」だったと考えられるからである。
それに、火の技術をもっとも早く身につけたと考えられる人たちは、
アナトリアから北シリアに住んでいただけなのだ。
ごく初期の頃の金・石器時代の遺跡が、
アナトリア南西部のハシラー(Hacilar)で発見されている。
BC5400年頃のものである。
ハシラーでは、BC7000年頃から人間の定住の跡が見つかっている。
ハシラーの金・石器時代の人たちは、
それ以前の石器時代からの継続性をもっている。
それ故、彼らの遺した銅器は、
他所から輸入したものである可能性が高い。
ユーフラテス川の支流、カブール川のほとりのハラフでも、
BC5300年頃の金・石器時代の遺跡が見つかっている。
その住人は、
アナトリア南部のタウラス山脈の辺りからやって来たと考えられている。
かくて、人類史上最初の銅の輸出地は、
タウラス山脈から北シリア地中海沿岸部の可能性が高いのだ。
エジプトでは、BC5000年頃の墓から
銅製の武器と器具が発見されているという。
しかし、その頃、エジプトで銅が普及していたわけではない。
BC4500年頃になっても、
中および下エジプトでは、銅はほとんど使われていないのだ。
ここで、BC6000年頃、
北シリアのラス・シャムラ(後のウガリト、現在のラタキアの近く)
で使われていた歴史上初めての陶器が、
ビルロス(昔のグブラ、ラス・シャムラの南150キロメートル)
に伝わるのがBC5000年だったという事実を考えなければならない。
パレスチナへの伝播は、さらに遅れる。
いくら超古代とは言え、画期的な発明品である陶器が、
たった150キロメートルを伝播するのに
1000年もかかるなど考えられない。
ビルロスにその間人が住んでいなっかたか、
あるいは決定的な断絶要因が、その間に存在したのか。
いずれにせよ、BC5000年頃のエジプトの墓から出土した銅製の武器が、
シリア・パレスチナの陸路を通って伝播した可能性は低い。
では、エジプトで、独自の銅加工技術が生まれたのか。
そうだとすると、それより500年も後の
エジプトの人たちが銅の使用を知らなかったことは不自然になる。
かくて、BC5000年頃のエジプトの銅製の武器は、
海上を輸入された蓋然性が高くなるのである。
これに関連して興味深いのは、
アナトリアのカッパドキア地方と北シリアを結ぶタウロス山脈の交通の要衝、
キリキアの門の南、地中海に面するメルシン(Mersin)で、
BC4500年頃の、初めから設計された砦が発見されていることだ。
「設計されている」ことは、誰かそんな技術をもっている人間が、
よそからやって来て、メルシンに砦を築いたことを意味している。
いずれにせよ、メルシンで自然発生したものではないだろう。
わざわざやって来て砦をつくった目的は、まちがいなくなにかを守るためだろう。
なにを守る必要があったのだろうか。
メルシンのロケーションから言って、
その砦は、海のルートを守るためだった可能性が高い。
そうだとすると、すでにその頃、
船舶による海の交通があるていど発達していたことになる。
ここで、BC8000年以上昔のジェリコで、
アナトリアのカイセリ産の黒曜石が使われていたことを思い出す必要がある。
誰が、どんな手段で運んだのだろう。
カイセリからジェリコまで、陸路では1000キロメートルはたっぷりある。
カイセリからメルシンまでは300キロメートル足らず。
そこから船を使ったのではないだろうか。
商人あるいは旅人は、旅の食料をどうやって運んだのだろうか。
当時は、まだ家畜が本格的に飼育される時代より、はるか昔である。
人間の数カ月分の食料といった重量物を運ぶ手段としては、舟のみが合理的である。
当時黒曜石はたいへん貴重な材料だった。
一度その存在を知った人間が、
次に手に入れようとした場合はどんな手を打つのか。
自ら探検隊を組織して産地へ乗り込む。
その可能性が高い。
それは、ほそぼそながら交易ルートのようなものができることを意味する。
黒曜石の如き、超古代の交易は別として、銅の時代には、
人間は舟あるいは船を使いこなすようになっていたのではないか。
だとすると、BC5000年頃のエジプトの墓の主は、
アナトリアから乗り込んだ、


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